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指定年月日:昭和28年11月14日
追加指定 :平成10年9月11日
所在地 :行橋市大字津積
みやこ町勝山大久保
犀川木山
行橋市の南西、みやこ町との境となるホトギ山(御所ヶ岳)に、御所ヶ谷神籠石という遺跡があります。上の写真は「中門」の石塁です。 1300年以上の時を経てなお、高さ7mもの石積みが残っています。
「御所ヶ谷」という地名は、九州を訪れた景行天皇(12代)がこの地に行宮(仮の皇居)を設けたとの言い伝えによります。遺跡のほぼ中央の見晴らしのいい高台に礎石(建物のあと)があったためで、景行天皇を祀る神社も建立されています。南北朝時代に、東隣の山にあった馬ヶ岳城の城主、新田氏との関連で懐良親王の子が住んだのではないかとする説もあります。
「神籠石(こうごいし)」とは、山中に列石や土塁、石塁で囲いを作った遺跡のことです。 7世紀後半頃に作られた山城跡だとする説が有力です。現在、北部九州から瀬戸内海沿いの地域にかけて、16ヶ所が確認されています。敵軍の侵攻を監視し、妨害するために古代の官道を見張りやすい位置に築かれたとされており、御所ヶ谷神籠石も、北麓を大宰府と京都平野をつなぐ古代官道が東西に走り抜けています。
北側上空から撮影。左側の最高所がホトギ山。中央右の空き地が景行神社。
御所ヶ谷神籠石は、標高246.9mのホトギ山(御所ヶ岳)を南東端とし、尾根に沿って西に約1km、北に約600mの三角形に近い範囲に広がっています。想定される防衛ラインは総延長約3kmで、そのうち約2kmで土塁や石塁といった人工施設が確認されており、のこりは急峻な自然地形を活用したと考えられます。城門跡は7ヶ所が確認されています。敵を射撃しやすくするために城門の両側の土塁線を外に張り出したり、敵の侵入を妨害するために城門の内側にも土塁を設けたりと、高度な防御の工夫が見られます。
土塁は板で枠を作り、少しずつ土を入れてつき固めながら積み上げる「版築(はんちく)」という技法が用いられています。版築は大陸(中国や朝鮮半島)から伝わった技法で、土塁を堅固に高く築くことができます。
下の写真は、発掘調査で土塁の構造を確認した写真です。右側の白っぽい斜面が本来の山の土で、そこに層状に白い土とやや赤い土が交互に積まれています。左下には、枠を抑えるための柱の痕跡も残っていました。本来はもっと急な角度だったと考えられます。
土塁の断面。赤っぽい土と白っぽい土の層が重なっている。
景行天皇の行宮と思われた建物跡は、現在は城の司令塔のような建物だったのではないかと考えられています。
現在御所ヶ谷神籠石は史跡公園として整備を進めており、遊歩道で土塁・石塁をたどって歩くことができます。
また、公園内には絶滅危惧種のシダ植物「ヒモヅル」の自生地があり、福岡県の天然記念物に指定されています。
御所ヶ谷住吉池公園から東の尾根に登ると、ホトギ山(仏山)を雅号とした漢詩人・村上仏山の著作を埋めた「蔵詩巖」もあります。
ホトギ山から東側に尾根を歩くと、豊臣秀吉が滞在し、黒田官兵衛が居城とした市の指定史跡、馬ヶ岳城跡にも行くことができ、古代の山城と戦国時代の山城を比べることができます。
ぜひ、歴史と自然が豊かにのこる公園を散策してみてください。
平成筑豊鉄道「豊津駅」より
徒歩約5km
東九州自動車道