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神籠石(こうごいし)とは

ページID:0001753 更新日:2022年11月25日更新 印刷ページ表示

 「神籠石」とは山中に列石や土塁、石塁で囲いを作った遺跡のことです。現在北部九州に10ヶ所、瀬戸内海沿いの地域に6ヶ所確認されています。明治31(1898)年に久留米市高良山の高良大社を囲む列石が「神籠石」として紹介されて以来、各地の類似した列石のある遺跡も神籠石と呼ばれるようになりました。神聖な土地を囲む「神域」説と「山城」説で論戦が続きましたが、戦後に各地の神籠石で行われた発掘調査によって、列石がもともとは土塁の基礎であったことが明らかになり、現在では「山城」説が有力となっています。

 「大野城跡」や「基肄城跡」など、神籠石に類似した遺跡もありますが、「朝鮮式山城」と呼ばれています。神籠石との違いは、『日本書紀』などの古代の文献資料に記されていることです。記録によれば、7世紀後半に百済(くだら、かつて朝鮮半島に存在した国)人の指導によって築かれました。神籠石は記録がないため築かれた時期ははっきりしませんが、構造が似ているため同時期に築かれたと考えられています。

 これらの古代山城が築かれた7世紀後半は、朝鮮半島の三国のうち百済と高句麗が、中国の唐と連合した新羅に滅ぼされた激動の時代です。660年に百済が唐軍に滅ぼされ、旧百済の遺臣と倭(古代の日本)が復興軍を起こしました。しかし復興軍は663年に白村江の海戦で唐・新羅連合軍に大敗してしまいました。
 倭は唐と新羅の軍が日本列島に攻め込むことを恐れて防人(さきもり)を配置し、大宰府(福岡県太宰府市)を囲むように「水城」(みずき)と「大野城」・「基肄城」、そして侵攻ルートにあたる対馬に「金田城」を次々と築きました。
 神籠石も近い時期に築かれたとする説が有力で、御所ヶ谷神籠石の発掘調査でもこの時期の壷が出土しています。