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守田蓑洲旧居

11 住み続けられるまちづくりを
ページID:0001022 更新日:2022年8月12日更新 印刷ページ表示

行橋市指定史跡

守田蓑洲旧居 外観

市指定史跡
指定年月日:平成20年8月1日
所在地:行橋市大字沓尾181番


守田蓑洲旧居について

 「もりた さしゅう きゅうきょ」は、今から150年ほど前、江戸時代末期に守田家第27代当主 守田 蓑洲の屋敷で、「蓑洲亭」とも呼ばれていました。
 守田家は代々庄屋や大庄屋を務めた有力者で、この屋敷も藩の要人らを応接する大庄屋の職務をよく表す、接客を重視した造りの建物と庭園です。

 玄関の天井は竹製の大和天井(すのこ天井)、土間の頭上の梁は太い木材がむき出しのまま組まれ、重厚な歴史を感じさせます。室内は3分割された広間と奥座敷・次座敷・中の間・納戸からなります。
 屋敷北側の海沿いの通りに面して東西2つの門が設けられ、来客用の東の門は冠木門という形式で、明治4年に豊津藩(小倉藩の後身)が英語教師としてオランダ人のファン=カステールを招いた際に休憩のため迎え入れた門であるため、「オランダ門」と呼ばれました。
 この門から入った庭に面して次座敷と中の間があり、その奥に床の間や棚が設けられた格式高い奥座敷があります。奥座敷からは沓尾山(兵庫山)を借景とし、自然石を組んだ池泉庭園を眺めることができます。

守田家について

 守田家は周防国(山口県東部)を拠点とした守護大名・大内氏の一族で、豊前国守護代・杉氏のもとで松山城(苅田町)を拠点としていましたが、戦乱の中で今井(行橋市)に土着しました。
 江戸時代初期には、隣国筑前国の福岡藩黒田家を出奔した後藤又兵衛の潜伏に協力し、出立する際に贈られた槍が伝わっています(行橋市教育委員会所蔵)。また娘を預けられ、妻としました。夫妻の墓が沓尾の香円寺墓地に残っています。
 江戸時代の初めには、小倉藩の大名・細川忠興(三斎)の命令で沓尾を開拓して移り住み、その後も代々、在地の有力者として、庄屋や大庄屋を務めました。

守田蓑洲について

守田蓑洲 肖像 幕末の守田家第27代当主が蓑洲(1824~1910)です。
 漢学者 村上仏山の私塾、水哉園に学び、初代塾頭を務めました。
 小倉藩の村役人に就任すると、守田蓑洲旧居の正面に広がる広大な文久新地の干拓事業に参加し、慶応2年(1866年)に長州藩軍が小倉藩領に攻め込んだ小倉戦争(第二次長州征討の小倉口の戦い)にも従軍しました。その年に大庄屋に就任し、明治時代にも福岡県会議員を務め、私財を投じて地域の教育や農業を振興するなど、地域の発展に尽くしました。
 蓑洲の古稀の祝いとして贈られた「古稀寿賀帖」には、伊藤博文をはじめとする政治家や芸術家など、そうそうたる顔ぶれによる書画が収められています。