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守田蓑洲旧居

11 住み続けられるまちづくりを
ページID:0001022 更新日:2024年2月6日更新 印刷ページ表示

行橋市指定史跡

守田蓑洲旧居 外観

市指定史跡
指定年月日:平成20年8月1日
所在地:行橋市大字沓尾181番


守田蓑洲旧居について

 「もりた さしゅう きゅうきょ」は、今から150年ほど前、江戸時代末期に守田家第27代当主 守田 蓑洲の屋敷で、「蓑洲亭」とも呼ばれていました。
 守田家は代々庄屋や大庄屋を務めたため、この屋敷も藩の要人らを応接する大庄屋の職務をよく表す、接客を重視した造りの建物と庭園です。

 玄関の天井は竹製の大和天井(すのこ天井)、土間の頭上の梁は太い木材がむき出しのまま組まれ、重厚な歴史を感じさせます。室内は3分割された広間と奥座敷・次座敷・中の間・納戸からなります。
 屋敷北側の海沿いの通りに面して来客用として東西2つの門が設けられました。東の門は冠木門という格式高い形式で、明治4年に豊津藩(小倉藩の後身)が英語教師としてオランダ人のファン・カステールを招いた際に休憩のため迎え入れた門であるため、「オランダ門」と呼ばれました。
 この門から入った庭に面して次座敷と中の間があり、その奥に床の間や棚が設けられた格式高い奥座敷があります。奥座敷からは沓尾山(兵庫山)を借景とし、自然石を組んだ池泉庭園を眺めることができます。

守田家の歴史

 守田家は周防国(山口県東部)を拠点とした守護大名・大内氏の一族で、豊前国守護代・杉氏のもとで松山城(苅田町)を拠点としていましたが、戦乱の中で今井(行橋市)に土着しました。
 江戸時代初期には、小倉藩の大名・細川忠興(1563~1645)の命令で沓尾を開拓して移り住み、その後も代々、在地の有力者として庄屋や大庄屋を務めました。
 また隣国筑前国の福岡藩黒田家を出奔した後藤又兵衛の潜伏に協力し、出立する際に贈られた槍が伝わっています(行橋市教育委員会所蔵)。この時娘も託され、妻としました。夫妻の墓が沓尾の香円寺墓地に残っています。
 

守田蓑洲

守田蓑洲 肖像 幕末の守田家第27代当主が蓑洲(1824~1910)です。
 蓑洲は号で、実名は房貫。漢学者 村上仏山の私塾、水哉園に学び、初代塾頭を務めました。
 小倉藩の村役人に就任すると、守田蓑洲旧居の正面に広がる干拓事業を成功させ、慶応2年(1866年)に長州藩軍が小倉藩領に攻め込んだ小倉戦争にも従軍しました。その年に大庄屋に就任し、明治時代にも福岡県会議員を務め、私財を投じて地域の教育や農業を振興するなど、地域の発展に尽くしました。
 蓑洲の古稀の祝いとして贈られた「古稀寿賀帖」には、伊藤博文をはじめとする政治家や芸術家など、そうそうたる顔ぶれによる書画が収められています。