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市指定史跡
指定年月日:平成25年11月1日
所在地:行橋市大字大谷・西谷
みやこ町犀川花熊
城郭ファンは、城を訪れることを「攻める」と言うそうです。このページでは、馬ヶ岳城の攻め方をご案内します。現在、城に敵兵はいませんが、ハチなど危険な生物に十分ご注意ください。
「中世山城」馬ヶ岳城は姫路城や大坂城のような「近世城郭」とことなり、瓦葺の天守閣や石垣は作られませんでした。山上を削って平坦面(曲輪)をつくり、堀を掘って土塁を築くなど、山の地形を変える工事によって防御施設とした「土の城」です。馬ヶ岳城も、土木工事で山中の地形を改変することで防御を工夫しています。
現在、馬ヶ岳城の攻め口は北側「大谷登山口」、西側「御所ヶ岳」、南側「花熊登山口」の3ヶ所がありますが、ここでは最も登りやすい「大谷登山口」からの攻城ルートをご紹介します。
登りやすいと言っても、山城は本来、登って来る敵を拒む防御拠点です。飲み物など十分な装備と時間の余裕をもって上りましょう。また、ごみは持ち帰ってください。
畝状竪堀群まで…400m(徒歩約6分)
山頂(標高216m)まで…1430m(徒歩約50分)
大谷登山口から登山道を登ると、歩きやすい尾根筋の移動を妨害する「堀切」があります。さらに登山道を登ると、南北方向に約700m続く長大な「土塁」に到達します。現在城跡は木々に覆われていますが、城として管理されていた時代には木は切り払われていたはずです。立ち木は攻撃側の兵に盾として利用され、守備側の視界をさえぎってしまうからです。歩きやすい登山道のルートでは、土塁上の守備兵に監視され、弓矢や鉄砲による攻撃を側面に受けながら接近することになります。
土塁の守備兵を撃破し、さらに登っていくと、途中に標高144.6mの展望台があり、眺望が開けます。特に防御のための土木工事は確認できませんが、ここにも守備兵がいて上ってくる攻撃側の兵に射撃していたかもしれません。現在は3つの岩に「太閤岩」「官兵衛岩」「又兵衛岩」と愛称がつけられています。一息ついて岩に立って周囲を眺めれば、城主の気分が味わえるかもしれません。
さらに上ると傾斜が急になり、二重の「堀切」を越えて「二の丸」(標高208m)に到達します。ここからいったん鞍部に下り、再び30mほど斜面を登ると「本丸」(標高216m)です。「二の丸」から「本丸」にかけての馬ヶ岳城の山上部分は、あまり大規模な土木工事を行わなず、傾斜の厳しい地形を生かす古い山城の特徴を残しています。「本丸」、「二の丸」、展望台は非常に眺望がきき、京都平野を進む軍勢も、海上に展開する水軍も視認できたことでしょう。このページにはあえて城からの風景写真を載せませんでした。ぜひ現地で味わってください。
南麓、みやこ町犀川花熊の二児神社から攻め上ると、「本丸」と「二の丸」の間の鞍部にたどり着きます。鞍部は直接攻撃側の兵が進入すると「本丸」と「二の丸」が分断されてしまう城の弱点ですが、麓から鞍部までの斜面が急なため、有効な攻め口ではなかったようです。
古い山城の特徴を示す山上部分と対照的に、大谷登山口から向かって右側に砂利敷きの道を進むか、登山道から「土塁」に沿って下ると、「横堀」、「土塁」、「畝状竪堀群」などが密集する、馬ヶ岳城跡でもっとも防御の工夫が凝らされた一帯に到達します。このような防御施設は、長い戦乱の経験を蓄積した結果生まれたものです。
特に「土塁」と「横堀」は組み合わせることによって外側と内側、つまり攻撃側と守備側の高低差が強調されるため、「横堀」の底や「土塁」の上に立つと、攻撃側の不利さや守備側の有利さを実感することができます。これらの防御施設は、天正15年(1587)に豊臣秀吉の滞在のために急造されたと考えられています。見渡す限り続く「土塁」「横堀」「畝状竪堀群」を眺めると、築城に従事した人々の苦労がしのばれます。
「鞍部」高所と高所に挟まれ、低くなった尾根。
「畝状竪堀群(うねじょうたてぼりぐん)」等高線と直角になるような、斜面の傾斜の高い側から低い側に向かって掘る「竪堀」を畑の畝のように並べた防御施設。機能は諸説あって不明。
「土塁」土を堤防のように横に長く積み、敵の侵入を妨害する防御施設。
「堀切」尾根筋を切断するような堀。なだらかな尾根筋は歩きやすいため、人工的に段差をつけて通過を困難にする。
「横堀」城内から見て手前から遠くに縦に伸びる「竪堀」に対し、内側と外側を隔離するような堀。