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馬ヶ岳城跡(うまがたけ じょう あと)

ページID:0001998 更新日:2024年4月12日更新 印刷ページ表示

行橋市指定史跡

馬ヶ岳城に行く場合

御所ヶ谷神籠石から馬ヶ岳城跡を望む

市指定史跡
指定年月日:平成25年11月1日
所在地:行橋市大字大谷・西谷
みやこ町犀川花熊


 江戸時代の地誌や軍記物語によれば、馬ヶ岳城は10世紀、清和源氏の始祖である源経基(源頼朝の先祖、平将門や藤原純友と同時代の人物)によって築城されたと伝えられます。山の姿が鞍をおいた神馬を思わせたため、馬ヶ岳城と名付けられたそうです。14世紀半ばから15世紀前半にかけては新田氏三代(義基・義氏・義高)がこの城を拠点に南朝方として奮戦したとされ、昭和3年(1928年)にこれを顕彰する「新田氏表忠碑」が本丸跡に建てられました。
 しかし、これらは信頼性の高い資料による裏づけが得られず、伝説・伝承の域を出ません。

馬ヶ岳城跡 本丸
新田氏表忠碑が立つ本丸跡

 馬ヶ岳城の名が信頼できる古文書に現れるのは、応永12年(1405年)のことで、室町幕府の九州探題・渋川満頼の書状に「香春岳城と馬ヶ岳城を攻め落とした」と記されています。
 これ以降馬ヶ岳城はたびたび古文書に登場し、九州北東部の支配に不可欠な重要拠点として、九州を拠点とする少弐氏や大友氏・秋月氏、中国地方から九州への進出をはかる大内氏や毛利氏といった群雄たちによる激しい争奪戦が繰り広げられました。

 戦国時代末期には、大友氏と毛利氏の戦いの過程で本拠地の企救郡(北九州市東部)を奪われた領主・長野氏が馬ヶ岳城に拠点を移しました。天正3年(1575年)には薩摩国(鹿児島県西部)から京都・伊勢神宮へ旅行する島津家久が付近を通り、「長野殿の城有」と日記に書いています。


 豊臣秀吉の九州平定天正14年(1586)には長野三郎左衛門尉という人物が城主で、豊臣秀吉が先遣した黒田孝高(官兵衛)や毛利氏らの軍を迎え入れました。翌年九州に上陸した豊臣秀吉は、馬ヶ岳城に2泊滞在して九州での戦いに備えた軍議を行いました。難攻不落の岩石城(がんじゃくじょう:添田町)に対し、当初は監視の軍を残して本隊は先行する計画でしたが、蒲生氏郷・前田利長ら若手の武将の進言で強襲に方針転換しました。堅城・岩石城は猛攻によってわずか一日で落城したため、敵対していた秋月種実の早期降伏につながりました。
 また滞在中、秀吉が周辺の道を整備するよう指示したことが記録に残っています。
 秀吉は山上ではなく麓の谷間の館に滞在したようで、このとき谷を守るように長大な土塁や畝状竪堀群が設けられたと考えられています。

 秀吉は九州を平定し終えると、征服地を功臣たちに分配しました。
 行橋市を含む豊前国8郡のうち6郡(ただし宇佐郡の一部を除く)12万5000石を領地として与えられたのが黒田孝高です。孝高は当初馬ヶ岳城を拠点としましたが短期間だったようで、築上町八田の法念寺に滞在し、中津城の築城を始めました。官兵衛の息子・長政は中津城に移るまで、馬ヶ岳城を拠点にして城井氏など領内の敵対勢力と戦いました。

黒田家領
黒田家の領地。馬ヶ岳城は領地の北西に偏っている。


 慶長5年(1600)関ヶ原の戦いの際、中津城にいた孝高は西軍(石田三成方)の諸城を平定するため出陣しますが、馬ヶ岳城には桐山孫兵衛信行を守備に配置しました。

 関ヶ原の戦いの結果、黒田家は筑前に加増・転封し、代わりに丹後(京都府北部)と豊後の一部を領していた細川忠興が豊前一国および豊後の一部の大名として入部しました。黒田氏と細川氏の仲は険悪で、互いに藩境付近の城を整備しましたが、この時期馬ヶ岳城はすでに藩境から遠く、城としての役割を終えていたようです。

馬ヶ岳城に行く場合