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市指定有形文化財(彫刻)
指定年月日:令和元年6月4日
所在地 :行橋市大字下津熊1013 大儀寺
木造如意輪観音坐像は、像高61.2cm。後補の髻(もとどり)を除く地髪部までの高さは50.4cmです。桧(ひのき)を用いた寄木造で、玉眼を嵌入しています。切れ長の目と太い鼻を配した面部、大小の四角い塊を上下に重ねたような体形、強く屈曲してあらわされる衣紋や衣の縁の表現などに、南北朝時代から室町時代初期にかけての院派(いんぱ)仏師たちの典型的な作風がみられます。
構造は、頭体の幹部が基本的に前後二材からなり、膝前、右膝周辺、髻(後補)、腕、腰脇などを矧ぎ寄せています。表面は後補の漆箔が施されていましたが、下層に金泥塗の痕跡が残っていました。構造技法ともに南北朝時代の様相を示し、金泥塗は造像当初のものとみられ貴重です。
台座には天保4年(1843)に修理した際の墨書銘があります。この墨書銘により、「茶屋音右衛門」が施主となり、博多の仏師「雪中園喜兵衛」が修理したことがわかりました。本像を所蔵する大儀寺の文書から、「茶屋音右衛門」は大儀寺の壇徒で行事村の住人であると推定されます。
令和6年度に修復行い、剥落が進んでいた後補の漆箔を除去し当初の仕上げ面をあらわにしました。また木質の強化や亡失箇所の補作などを行いました。
本像を所蔵する大儀寺(だいぎじ)は行橋市大字下津熊1031番に位置し、山号を寶見山とする曹洞宗の寺院です。『京都郡誌』によれば、行橋市高来の天聖寺の末寺として明暦年間(1655-58)に妙山和尚によって開かれました。文化3年(1806)に現在地に移る前は、長峡川を挟んで400mほど北東の地にあったと伝えられています。
本像の造像時期が寺の開基より古いことから、本像を所蔵していた寺院を江戸時代に曹洞宗の大儀寺が再興したか、他の寺院の仏像として造られた本像が何らかの理由で大儀寺の所有となったかのいずれかだと考えられます。
本像は腕や漆箔などに損傷がみられるものの、造像当初の院派仏師の作風を総じて良く残しています。また市内の院派仏師の作品のなかでは法量が大きく、造像時期も古い様相を示します。南北朝時代に一世を風靡した院派仏師の活動と、その作品の地方への波及展開を考える上で重要な仏像です。