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「玉野井藤原朝臣邦吉発祥之地」碑

11 住み続けられるまちづくりを
ページID:0001026 更新日:2022年8月12日更新 印刷ページ表示

「玉野井藤原朝臣邦吉発祥之地」碑

 朝鮮王朝に仕えた申叔舟(1417-75年)が、日本と琉球国について記した『海東諸国紀』(1471年刊行)という書物があります。その中に、行橋市の「蓑島」が登場します。

海東諸国紀

『海東諸国紀』には、戊子年(応仁2年・1468年)、「豊前州蓑島海賊大将玉野井藤原朝臣邦吉」と名乗る人物が、対馬島主の宗氏を仲介として朝鮮王朝に使者を送ってきたことが記されています。 当時朝鮮王朝では訪れた使者に莫大な下賜品をあたえており、実態は献上品と下賜品の貿易であったと考えられます。

玉野井 藤原朝臣 邦吉(たまのい ふじわらのあそん くによし)は蓑島を拠点とする海賊大将を自称しています。 海賊といっても、実際には邦吉のように海外と貿易したり、海上輸送や航路の警護・水先案内、漁業など広く海に関わることを主な生業とし、時には近海を通過する船を襲い、あるいは海軍として合戦に参加する「海の武士団」「水軍」とも言われるような存在だったようです。 当時は海賊という言葉にあまり悪い印象がなく、誇らしく名乗ったのでしょう。

天然の良港・蓑島

 蓑島はもともと独立した島で、大正元年(1912)に橋が架けられ、その後干拓が進み昭和28年(1953)には陸続きになりました。
 周防灘の南西側には島がほとんど無く、帆船の時代、真水が湧き、人が住んでいる蓑島は貴重な寄港地でした。 蓑島は海上交通の要衝として栄え、「海賊大将」を名乗って朝鮮王朝に使者を送るような人物を生んだのです。
 他にも蓑島地区には「水軍井戸」や、海賊の来襲に備えて島民が弓術の練習をした逸話を伝える「蓑島百手祭」(市指定無形民俗文化財)のような伝統行事も残っています。

1947年米軍撮影航空写真

陸続きになる前の蓑島
1947年米軍撮影(国土地理院ホームページより)

 平安時代には景色の美しさを歌にも読まれた蓑島は、平成8年には「蓑島・長井海岸」として「せとうち風景30選」に選ばれました。
 現在も蓑島はカキなど魚介類の名産地として、また潮干狩りや海水浴ができる観光地として親しまれています。