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椿市廃寺跡 (つばきいち はいじ あと)

11 住み続けられるまちづくりを
ページID:0001897 更新日:2022年8月12日更新 印刷ページ表示

行橋市指定史跡

椿市廃寺跡 遠景
椿市廃寺跡遠景(東から)

市指定史跡
指定年月日:昭和56年2月2日
所在地:行橋市大字福丸393 ほか


 市の北西部、椿市地区の福丸に、真言宗の願光寺があります。この寺の境内や周囲の水田の地下に、古代の寺院が眠っています。これを椿市廃寺跡と呼んでいます。

 廃寺とは、長い年月を経て、名前さえわからなくなってしまった寺のことです。しかし昭和52年から4回の発掘調査が行われ、いろいろなことがわかりました。寺は門や講堂、塔などの建物が南北に並んでいたと想定されます。この配置は、6世紀末に聖徳太子が建てた四天王寺と同じ配置です。

 大量の瓦も発見され、この寺が7世紀末頃に建立されたこともわかりました。軒先の瓦には型押しの模様がありますが、椿市廃寺跡からは古代朝鮮半島の百済・新羅・高句麗三国の瓦に影響を受けた、多様なデザインのものが出土しています。
 中でも注目されるのは、8世紀の瓦です。当時の日本の皇居・中央官庁である平城宮(奈良市)の瓦と同じ型を使って作られた瓦が出土したのです。瓦の材料の土が異なるので、瓦を運んできたのではなく型が運ばれて来て、椿市廃寺の近辺で瓦が製作されたと考えられます。

百済系
​百済(朝鮮半島南西部)デザイン

高句麗系
​高句麗(朝鮮半島北部)デザイン

平城宮系
平城宮の瓦と同じ型の瓦

螺髪
螺髪(実物は高さ2.6cm)

 ほかにも、粘土製の螺髪(らほつ:仏像の髪の毛)や木簡(もっかん:紙のかわりに、文字を記すのに用いた薄い木の板)、釘、8・9世紀の土器多数などが出土しています。10世紀以降の土器はごく少なくなることから、9世紀のうちにこの寺は廃止されたようです。


 椿市廃寺は7世紀末頃の京都郡(行橋市西部と苅田町・みやこ町北部)で唯一の初期寺院であり、寺を建てたのは京都郡を代表する豪族だったと思われます。そのような豪族は郡司(郡の上層役人)を務めることが多いのですが、同時代の京都郡郡司を示す資料はありません。
 創建から五十年ほど後、天平十二年(741年)には楉田勝(しもとだのすぐり)勢麻呂という人物が京都郡の大領(長官)であった記録があります。寺の創建者は勢麻呂の父祖だったのかもしれません。
 一方、椿市廃寺跡の南東約3kmに位置する延永ヤヨミ園遺跡で出土した7世紀末から8世紀頃の土器に、墨で「京郡物太」と書き込まれていました。「京郡」は京都郡、「物太」は物部氏の大領を意味すると考えられます。椿市廃寺の創建者として、物部氏の可能性が浮上してきました。


 椿市廃寺が建てられた7世紀末は、全国に多数の古墳が作られた古墳時代が終わり、新しい時代に移り変わった時期です。それまで古墳を作っていた各地の有力者たちが、その権威の象徴を古墳から寺院へと転換していったと考えられています。
 日本に仏教が伝わったのは、6世紀前半のこととされています。7世紀前半までは寺院は当時の都があった畿内に集中して築かれ、文献によればその数は、46ヶ所でした。しかし7世紀後半以降は急速に他の地域でも地方豪族たちの手で建てられるようになり、その数は500を超えました。
 行橋市のある京都平野は瀬戸内海の西端にあり、畿内の文化が流入する窓口にあたるため、九州の中でも早くから仏教文化が展開したことが知られています。
 椿市廃寺はその中でも時期の早いもののひとつであり、この地域が当時の新しい文化を敏感に受け入れ、瓦作りのような新しい技術を朝鮮半島や畿内から取り入れることのできる地域であったことを物語っています。

塔の心柱の礎石の画像
塔の心柱の礎石