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旧飴屋門(きゅう あめや もん)

ページID:0001379 更新日:2022年10月19日更新 印刷ページ表示

行橋市有形文化財

旧飴屋門

市指定有形文化財(建造物)
指定年月日:平成13年10月1日
所在地  :行橋市行事5丁目5番3号


 この門は、豪商・行事飴屋の屋敷の門でした。飴屋は江戸時代中期、宝永六年(1709)に飴の製造・販売を始めて以来、綿実(油の原料)商、酒商、質商、醤油商など事業を拡大していきました。船を所有し、上り商い(大阪方面との商売)も行っています。たびたび小倉藩に献金して藩の財政を支えた小倉藩屈指の豪商で、明治時代初めの全国の長者番付「大日本持丸長者鑑」にも名を連ねています。

 幕末頃に描かれた行橋市中心部の地図、「大橋村行事村宮市村見取図」によれば、飴屋の屋敷(玉江彦右衛門宅)は中津街道(城下町小倉・中津をつなぐ主要道)と、長峡川(ながおがわ)にそって内陸・田川方面に向かう道の交差点に面しています。
 この交差点の南、長峡川に架かる万年橋は中津街道が長峡川を渡る橋で、飴屋が架けたため飴屋橋とも呼ばれていました。橋の下流側の岸には飴屋の「浜倉」が並んでおり、海から遡上してきた船荷の積み下ろしをしていました。また長峡川の対岸には運河・舟路川(ふなじがわ)が開口しています。舟路川は今川につながり、今川上流の田川郡の一部(現在の添田町の一部)の物産も長峡川河口に集めることができました。
 この屋敷が、陸路と河川水運に加え、海運とも接続する交通の要衝にあったことがわかります。

 敷地内には三層四階建ての「快哉楼」という建物もありました。七代当主は「蓬洲」を号して絵画をよくする風流人で、市内出身の漢詩人・村上仏山をはじめ、田能村竹田、頼山陽といった著名人多数と交流しました。


 旧飴屋門は蓬洲の代、天保年間(1830~44年)頃に建てられたと伝わります。小倉藩主の領内巡検の際、これを迎え入れるために建てられたため、「御成門(おなりもん)」と呼ばれました。藩主を迎えるのにふさわしい、薬院門(やくいもん)という格式の高い型式で作られています。
 潜り戸が付いた本瓦葺きの重厚な造りが、藩を支えた豪商の風格を今に伝えています。