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仏山塾(水哉園)跡

11 住み続けられるまちづくりを
ページID:0023711 更新日:2023年8月14日更新 印刷ページ表示

福岡県指定史跡

仏山塾跡の庭園

指定年月日:昭和32年8月13日
所在地:行橋市大字上稗田553-1
 ※個人宅のため、立ち入りはご遠慮ください。


 仏山塾は、村上仏山(1810年~1879年)が1835年に上稗田に開いた私塾です。別名を「水哉園(すいさいえん)」ともいいます。由来は古代中国の儒学書『孟子』にある孔子の言葉です。

 寺子屋で読み書きなど基礎学力を身に着けたものが仏山塾に進み、儒学や漢詩などを学びました。仏山塾では、塾生を学力で9クラスに分け、それぞれに応じた教育が施されました。学問だけでなく人間としての生き方、考え方などの道徳を重視しました。

 仏山の漢詩人としての名声が高まるにつれて、全国各地から塾生が集まり、開塾から1882年(明治15年)までに約3千人もの塾生が通学または寄留しました。入門帳には越前国(福井県)や下総国(千葉県)の出身者も見えます。世界で初めて『源氏物語』を英訳し、内務大臣などを務めた末松謙澄、内閣書記官長や満鉄総裁などを務めた安広伴一郎、日本を代表する漢学者として「昭和」の元号を考案した吉田学軒などがこの塾を巣立ち、活躍しました。
 長州藩の志士、久坂玄瑞も仏山に会うために来訪し、歓待に感激しています。

末松謙澄の写真
末松謙澄(1855-1920)

安広伴一郎の写真
安広伴一郎(1859-1951)

 現在、当時の建物は残っていませんが、庭園の一角に仏山晩年に旧門人たちが建立した「仏山先生墓」や、仏山塾の資料を収蔵する仏山堂文庫があります。