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行橋市の民話

ページID:0013810 更新日:2023年1月27日更新 印刷ページ表示

 民話は地域や語った人によっていろいろな形があります。

たもと水

 むかし、延永長者(のぶながちょうじゃ)という大金持ちがいました。

 ある年、雨がなかなか降らず、田んぼが乾ききってしまいました。長者が小松ヶ池の龍神に雨ごいをして、「雨を降らせてくれたら娘をさしあげます」と約束すると、すぐに大雨がふり、田んぼに水があふれました。

 龍神への嫁入りの日、娘は亡くなった母のために千巻経(お経を千回となえる)をあげたいと言い、一晩中お経をあげ続けました。池の中で娘を待ち構えていた龍神はお経の力で娘に近づくことができず、最後には死んでしまいました。

 娘はなんとかたすかりましたが、一晩中お経をあげたことで力を使い果たしてしまい、家に帰る途中で「胸が痛い」と倒れてしまいました。おともしていた乳母(うば)は急いで近くの湧き水で袂(たもと、和服の袖の下のふくろのような部分)を湿らせて娘に水を飲ませました。娘の胸の痛みはおさまりましたが、「村人にふりかかるわざわいや病気を、身代わりになって救います」と言い残して亡くなってしまいました。

 この湧き水は袂水(たもとみず)と呼ばれ、観音様が祀られています。

大橋太郎

 鎌倉時代のはじめ頃、大橋太郎という九州の武士が、無実の罪で長いあいだ鎌倉の牢屋にとじこめられていました。

 残された妻と子は、太郎の生死もゆくえもわからず、領地も取り上げられてしまい、太郎の無事をいのって日本各地をめぐってお寺や神社にお経をあげる旅に出ました。たまたま鎌倉にたどりつき、鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)でお経をあげていると、その声の美しさと、父を探して各地をめぐっているという事情が鎌倉中の評判になりました。
 ちょうどそのとき太郎の死刑が決まりましたが、妻と子の話に感動した将軍・源頼朝の命令で特別に許され、太郎は釈放されました。長い牢屋での生活でやせおとろえた太郎は、妻と子とともにゆっくりと、故郷を目指しました。

 やっとのことで九州にまでたどりついた太郎たち3人が、漁師の家が2、3軒しかない海辺を通りかかると、まごころのある優しいもてなしをうけました。太郎たちはその土地を気に入り、住むことにしました。
 「大橋太郎様が住み着いた」という噂がひろがると、太郎の昔の領地からも人々が移り住むようになり、村もさかえ、そのうちにしぜんとその村は大橋村と呼ばれるようになりました。

 大正時代に大橋地区で工事中、古いお墓が見つかり、大橋太郎の墓ではないかといわれました。それを記念して立てられたのが、大橋神社の境内にある「大橋太郎碑」です。

宝珠さま

 行橋市の稲童地区、松原地区は川が少なく、村人たちは田畑につかう水に困っていました。

 豊臣秀吉が九州に攻め込んだ時、戦って討死した宝珠弾正高益(ほうしゅだんじょうたかます)の子どもがこの地にすみつき、村人をひきいてため池をつくったので、田畑に水をひけるようになりました。稲童、長井、道場寺、松原地区に48もの池を作ったということです。

 村人たちは「宝珠さま」と呼んでうやまい、宝珠さまがなくなった後も感謝を忘れず、石碑をたてて今でもまつっています。

赤べんちょろ

 元永地区にある今井津須佐神社と大祖大神社は、急なガケの上に建っていて、石段を作ろうと思ってもなかなかできませんでした。

 子どもやお年寄りがなかなかお参りできないので、ある年代官さまが「ことしの夏まつりまでに、のぼりやすい石段をつくるように。」と名主(村長)に命令しました。

 しかしガケでの工事は難しく、けが人も出て、半分ほどしか終わらないまま夏まつりのまえの日になってしまいました。

 「どうか、お助けください」と神社でお祈りをしていた名主がふと振り返ると、いつのまにか石段が完成していました。石段のまわりには、たくさんの「赤べんちょろ」(小ガニ)が泡を吹いてひっくり返っていました。それまで赤べんちょろは「田んぼのアゼに穴をあけて邪魔をする」と村人たちに嫌われていましたが、大切にされるようになったということです。
今井津須佐神社 百段がんぎ

 

『行橋市史 下巻』にはこのほかにも民話や伝説が収録されています。