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行橋市の偉人

ページID:0013805 更新日:2023年1月28日更新 印刷ページ表示

村上仏山(むらかみ ぶつざん)

江戸時代の1810年に上稗田村(行橋市上稗田)に生まれました。

子どものころから漢学(中国の学問)を学び、14歳で故郷を離れて秋月(福岡県朝倉市)の学者、原古処などのもとで学問を深め、25歳で故郷の上稗田に塾、水哉園を開きました。

水哉園では『論語』や『孟子』などを教材として、学力だけでなく人間としての生き方などの道徳を重視する教育を行いました。仏山は全国的に有名になり、遠いところでは千葉県や福井県のあたりからも学びにきました。塾が運営されていた1835年から1882年までの入塾者の名簿は約3,000人に及びます。

質の高い教育が行われた水哉園からは、明治時代の郷土の発展を支える人物が数多く送り出されました。そして次に説明する末松謙澄のように日本を代表して世界で活躍する人物がうまれました。

村上仏山の画像

末松謙澄(すえまつ けんちょう)

江戸時代の終わりごろ、1855年に前田村(行橋市前田)の村役人の子として生まれました。1866年に小倉藩(行橋を含む福岡県北東部)と長州藩(山口県)との戦争の影響で謙澄の家は焼けてしまいましたが、村上仏山にひきとられて学問をすることができました。

1871年に上京して、新聞記者として働いていると、伊藤博文(のちに初代総理大臣)に能力を見抜かれ、役人に採用されてイギリスで学ぶチャンスが与えられました。イギリスでは勉強しながら、『源氏物語』を英語に訳して発表するなど、日本の評価を高める活動もしていました。

イギリスの最高の大学であるケンブリッジ大学を卒業して日本に帰ってくると、1889年に伊藤博文の娘の生子と結婚し、博文を支える政治家として働きます。

1904年に日露戦争(日本とロシアの戦争)が起こるとふたたびイギリスに行きました。当時イギリスなどヨーロッパの国々では、日露戦争は日本が悪いという意見が強かったのですが、謙澄は得意の英語で日本の立場を説明してヨーロッパのひとびとの意見を変え、日本の勝利に貢献しました。

政治家をやめたあとは『防長回天史』という本の執筆に専念し、完成させた1920年に亡くなりました。『防長回天史』は今も幕末史研究の重要な本として読まれています。

末松謙澄の画像

竹下しづの女

明治時代のなかごろ、1887年に稗田村中川(行橋市中川)に生まれました。本名はシヅノで、しづの女は俳句をよむときのペンネームです。子どものころは、末松房泰(謙澄の兄)を先生として、『万葉集』や『徒然草』など日本の古典を習いました。教師として働き、1912年に結婚を機会にやめ、主婦として3人の子育てをしながら小説や俳句を発表しました。

1920年に俳句の雑誌『ホトトギス』に投稿した「短夜や乳ぜり泣く児を須可捨焉乎」が高い評価を受けました。

その後、俳句のめざすべき方向性になやみながら、私生活では自身や家族の病気や夫の死、息子の死に苦しみながらも俳句を作り続け、表現の世界を追求し続けました。

竹下しづの女の画像