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行橋市の史跡

ページID:0013803 更新日:2023年1月30日更新 印刷ページ表示

御所ケ谷神籠石

 「ごしょがたに こうごいし」は、1300年以上前につくられたお城の遺跡です。この時代のお城は、戦国時代や江戸時代のお城とちがい、お城全体を一つの輪で囲むように城壁を作るのが特徴です。城壁のほとんどが土を積み重ねて作った「土塁」ですが、水が流れる谷の部分には石を積み上げた「石塁」を作ります。
 御所ヶ谷神籠石は約35万平方メートル(福岡 PayPayドーム約5個分)の広さで、「中門跡」の石塁は、四角く整えた石を積み重ね、高さが7mもあります。

御所ヶ谷神籠の画像

稲童1号掩体壕

 約80年前、日本はアメリカ合衆国などと戦争をしていました。その戦争をアジア太平洋戦争と呼んでいます。

 日本の負けが近づいて、空襲を受けるようになると、築城飛行場にあった軍用飛行機を隠すために稲童地区にたくさんの格納庫が作られました。これを掩体壕(えんたいごう)といいます。
 稲童1号掩体壕は幅25mほどの飛行機も格納できる大型の掩体壕です。コンクリート屋根で飛行機を守る構造ですが、空襲のときに正面から攻撃され、中の飛行機は燃えてしまったそうです。

稲童1号掩体壕の画像

仏山塾跡

「ぶつざんじゅく あと」は、江戸時代の終わりごろに村上仏山が開いた塾の跡です。水哉園ともよばれます。
中国の古典や漢詩を教える塾で、塾が運営されていた1835年から1882年まで、約3,000人の人が学びました。ここで学んだ人々が明治時代に活躍します。その代表が末松謙澄で、イギリスに留学して日本文化を英語で紹介したり、政治家として大臣をつとめたり、歴史書を書いたりと幅広く活躍しました。

村上仏山塾跡の画像

旧飴屋門

行事地区と大橋地区は、江戸時代に商業の街として発展しました。長峡川の川岸には蔵が立ち並び、船の荷物を盛んに積み下ろししていたそうです。

行事村・大橋村には豪商がいて、その一人が「飴屋」(あめや)です。甘い飴を作って売ることから商売をはじめ、いろいろなものを扱うようになり、船を所有するほど商売を広げました。

旧飴屋門は、飴屋の屋敷に小倉藩主を迎えるために建てた門で、豪商の繁栄を物語る建物です。

行事村の「行」と大橋村の「橋」が、「行橋」という地名の由来です。

旧飴屋門の画像

椿市廃寺跡

「つばきいち はいじ あと」は、今から1300年前に椿市地区に建てられたお寺の遺跡です。たくさんの屋根瓦や粘土製の仏像の一部などがみつかりました。瓦の模様を調べると、韓半島(今の韓国、北朝鮮)の瓦と同じデザインのものや、当時の首都であった奈良県の平城京で見つかった瓦と同じ型で作った瓦が使われていたことがわかりました。この時代に行橋に仏教や、屋根瓦をふく大きな建物を建てる技術が伝わったことをしめす重要な遺跡です。

椿市廃寺跡の画像