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行橋市の歴史

ページID:0013497 更新日:2023年1月28日更新 印刷ページ表示

人が住み始めたころから平安時代まで

行橋市には、いつから人がいたのでしょうか。行橋市内で一番古い人の痕跡は、今からおよそ3万年前の後期旧石器時代のものです。稲童地区の渡築紫遺跡(とつくしいせき)の発掘調査で、約2万8千年前に降り積もった火山灰よりも下の地層から、当時の人々が使っていた石器が見つかりました。

出土石器の画像

◆渡築紫遺跡出土石器◆

 

次の縄文時代は土器や弓矢が使われ始め、人々が集まって長く住む集落(ムラ)が生まれた時代です。しかし東日本に比べて西日本は人口が少なかったようで、行橋市内でもあまり縄文時代の遺跡はみつかっていません。

約2,800年前から始まる弥生時代には行橋市の地域でも人口が増えて、大きなムラがあらわれました。下稗田遺跡や延永ヤヨミ園遺跡、辻垣遺跡群などが弥生時代のムラの遺跡です。発掘調査で家(竪穴式住居や掘立柱建物)のあとや食べ物を蓄えていた穴、お墓などがたくさんみつかっています。

下稗田遺跡の画像

◆下稗田遺跡◆

約1,750年前から約東北地方から九州までのほとんどの地域でえらい人のお墓、「古墳」を作る古墳時代がはじまります。

行橋市は古墳が多い地域で、丘や山の斜面ならほとんどどこにでも古墳があるほどです。特にえらい人のお墓である前方後円墳は延永地区のビワノクマ古墳や長木地区の八雷古墳、高瀬地区の隼人塚古墳などがあります。

古墳の画像

◆隼人塚古墳◆

 

古墳を発掘調査すると刀や矢じり、よろいかぶとなどの武器・武具が見つかることが多いのもこの地域の特徴です。

稲童古墳群出土甲冑の画像

◆稲童古墳群の甲冑◆

 

西暦663年に、日本は朝鮮半島(今の韓国と北朝鮮)にあった百済(くだら)国を助けるために軍隊を送りましたが、敵の新羅(しらぎ)と唐(とう、いまの中国)に負けてしまいます。西日本各地には、新羅や唐が日本に攻め込んできた場合にそなえてお城が築かれました。行橋市の御所ヶ谷神籠石(ごしょがたにこうごいし)もそのころ築かれたお城だと考えられています。高さ7mの石垣が1,300年以上たった今も残っています。

御所ヶ谷神籠石の画像

◆御所ヶ谷神籠石◆

 

またそのころから日本は国の制度が整い始め、地域の区分も決められました。九州の北東部(福岡県北九州市の東半分から大分県宇佐市まで)は豊前国(ぶぜんのくに)となり、その中は8つの郡に分けられました。行橋市の地域は豊前国の一部で、西側が京都郡(みやこぐん)、東側が豊前国仲津郡(なかつぐん)にあたります。

豊前国図の画像

◆豊前国図◆

 

鎌倉時代から江戸時代まで

行橋市周辺は本州からみると九州の玄関口にあたる地域なので、鎌倉幕府や室町幕府がつぎつぎと武将を送り込み、また戦国時代にも中国地方の大内氏や毛利氏が攻め込みました。一方、九州の大友氏(本拠地は大分県大分市)、秋月氏(本拠地は福岡県朝倉市)なども勢力を広げようとし、行橋市周辺は激しい戦いの舞台となりました。地域を守るために馬ヶ岳(うまがたけ)城や覗山(のぞきやま)城などの山城が築かれました。

一方で今井地区周辺が港町「今井津(いまいつ)」として栄え、今井祇園祭(いまいぎおんさい)など現在までつづく文化も花開きました。

今井祇園祭の画像

◆今井祇園祭◆

 

各地の戦国大名に打ち勝って天下統一を目指す豊臣秀吉が1587年に九州に攻め込んだ際は、馬ヶ岳城に2泊し、戦略を練りました。その後行橋をふくむ地域は黒田官兵衛に領地として与えられました。

馬ケ岳の画像

◆馬ヶ岳城跡◆

 

その後、この地域の大名は1600年に細川家、1632年に小笠原家と移り変わります。

行橋市の地域では、大橋村や行事村が江戸時代に商業の町として発展し、俳句などの文化が栄えました。

また江戸時代の終わりごろには上稗田村に学者の村上仏山が塾を開きました。質の高い教育を受けた塾生たちが地域の発展に活躍します。日本を代表して世界を相手に活動した末松謙澄のような人物もいます。

末松謙澄の画像

◆末松謙澄◆

 

明治時代から行橋市の誕生まで

1889年(明治22年)に村々が合併し、現在の行橋市の地域に行橋町と8つの村ができました。「行橋」という地名は、このとき行事村と大橋村から1字ずつとって誕生しました。

1895年(明治28年)に行橋駅が開設されて小倉方面と筑豊方面、1897年(明治30年)に宇佐(大分県)方面に鉄道がしかれ、さらに行橋駅に鉄道工場がたてられたため、行橋町は鉄道の町として発展しました。

行橋市南東部の新田原とよばれる地域は田畑が作りにくく、野原が広がっていましたが、明治時代にブドウやモモ、ナシそして大正時代にイチジクの栽培がはじまりました。新田原駅ができて出荷がしやすくなったため生産量が増え、昭和初期には九州を代表するくだものの生産地になりました。

イチジクの画像

◆イチジク◆

 

昭和前半のアジア太平洋戦争のころには、現在の行橋市と築上町(ちくじょうまち)にまたがる形で軍の築城飛行場(ついきひこうじょう)が作られましたが、戦争のおわりが近いころには築城飛行場も空襲を受けるようになりました。民家の近くに飛行機をかくす施設がつくられた稲童地区も空襲され、家や神社が焼け、死者も出ました。

稲童1号掩体壕の画像

◆稲童1号掩体壕◆

 

1954年(昭和29年)、行橋町と延永村、椿市村、稗田村、今川村、泉村、仲津村、今元村、蓑島村の8村が合併し、行橋市が誕生しました。

 

行橋市の歴史年表

西 暦

年 号

内  容

1954年

昭和29年

10月

9町村が合併して、行橋市が誕生

第1代行橋市長「末松 實蔵」が当選

1955年

昭和30年

4月

市章(市のマーク)を制定

1962年

昭和37年

4月

「矢留浄水場」が完成

1963年

昭和38年

4月

「し尿処理場」が完成

1966年

昭和41年

4月

第2代行橋市長「金子 忠」が当選

10月

市の花「コスモス」を制定

1973年

昭和48年

3月

市の木「もくせい」を制定

12月

「今川サイクリング道路」が開通

1974年

昭和49年

8月

「市民の歌」を制定

1976年

昭和51年

6月

第3代行橋市長「堀 助男」が当選

1979年

昭和54年

 

「集中豪雨6月30日災害」で市内に大被害

1982年

昭和57年

2月

「新市庁舎(東棟)」が完成

1984年

昭和59年

10月

「市民憲章」を制定

1985年

昭和60年

3月

「消防庁舎」が完成

1987年

昭和62年

3月

「市民体育館」が完成

4月

小学校区が11校区に増加

1988年

昭和63年

4月

「弓道場」が完成

1989年

平成元年

2月

「研修センター、武道館」が完成

8月

第1回行橋夏まつり「こすもっぺ」が開催

10月

「平成筑豊鉄道」が営業開始

1990年

平成2年

3月

第4代行橋市長「柏木 武美」が当選

8月

複合文化施設「コスメイト行橋」が完成

1991年

平成3年

4月

総合公園にテニスコート、相撲場、子供広場が完成

8月

「国道10号線行橋バイパス」が開通

9月

台風17号と19号で大被害

1993年

平成5年

10月

移動図書館車「ゆっくん」が運行開始

1994年

平成6年

3月

市営火葬場「やすらぎ苑」が完成

総合福祉センター「ウィズゆくはし」が完成

1996年

平成8年

10月

行橋市勤労者総合福祉センター「サンワークゆくはし」が開設

7月

「行橋市魚市場」が業務開始

1997年

平成9年

11月

人口7万人達成

1998年

平成10年

7月

「行橋京都休日・夜間急患センター」を開設

1999年

平成11年

8月

JR日豊本線行橋駅付近の線路が高架に

2000年

平成12年

10月

市内小中学校にインターネット開設

2001年

平成13年

3月

第5第行橋市長「八並 康一」が当選

2003年

平成15年

5月

「行橋市地域ケア複合センター」が開所

2004年

平成16年

8月

「行橋みやこ大橋」が開通

10月

「行橋市施行50周年記念式典」を開催

2012年

平成24年

4月

「子ども医療費支給制度」が中学3年生まで拡充

2013年

平成25年

12月

「行橋京都メディカルセンター」を開設

2月

「防災食育センター」が完成

3月

東九州自動車道「苅田北九州空港IC~行橋IC」が開通

2014年

平成26年

3月

第6代行橋市長「田中 純」が当選

12月

東九州自動車道「行橋IC~みやこ豊津IC」が開通

2015年

平成27年

1月

「ゆくはしシーサイドハーフマラソン」が初開催

2月

「子ども議会」を初開催

2016年

平成28年

9月

「ゆくはしビエンナーレ2017」大賞決定

10月

「行橋市民会館」が閉館

2019年

令和1年

8月

「令和コスタ行橋駅」が開業

2020年

令和2年

4月

「リブリオ行橋」が開館

7月

「長井浜公園」が開園

2022年

令和4年

4月

第7代行橋市長「工藤 政宏」が当選