生い立ち

2014年5月7日

天文十五(一五四六)年十一月二十九日、小寺職隆の長男として播磨国の姫路(現在の兵庫県姫路市)に生まれます。

時は戦国時代、強国に囲まれるなか、織田信長の家臣であった秀吉に仕えるようになります。

官兵衛は、鳥取城の兵糧攻めや、備中高松城の水攻めなどの作戦を考え活躍しました。

本能寺の変と「中国大返し」

備中高松攻めのさなか、本能寺の変が起こりました。

主君信長の死の知らせにおどろく秀吉に、官兵衛は冷静に天下取りを進言したといわれます。

秀吉はすぐさま毛利氏と和を結び、中国地方にいた軍勢を京都を目指して進軍させ、たった十日ほどで岡山から三万の軍勢を率いて舞い戻り、信長の弔い合戦に勝利します。

あまりに早い大移動だったので、「中国大返し」と呼ばれています。

官兵衛はこの戦いに大きく貢献し、この後も秀吉のいくさを勝利に導いていきます。

秀吉の九州攻めと官兵衛の豊前統治

天正十四(一五八六)年七月、秀吉は九州攻めを始めます。官兵衛は秀吉に先立って九州に入り活躍します。

天正十五(一五八七)年に秀吉も自ら遠征軍を率いて九州へ上陸し、同年三月二十九日には馬ヶ岳城に入り二泊します。

天正十五年五月には島津氏が降伏し九州攻めが終わります。

同年七月、官兵衛は秀吉から豊前六郡(京都郡、仲津郡、築城郡、上毛郡、下毛郡、宇佐郡の一部)を与えられました。

官兵衛は中津城に移るまで、馬ヶ岳城を居城とし領内の統治を行いました。

豊前国に残る黒田官兵衛の軌跡にスポットをあてたパンフレットを作成しました。