官兵衛ゆかりの地

2013年8月7日

豊前地域の要衝、馬ヶ岳城

平野を取り囲む山や丘には、古くから山城が多く築かれました。

ここ京都平野にも山城の跡が多くあり、馬ヶ岳城もその一つです。

秀吉や官兵衛が訪れるよりも古くから、馬ヶ岳城は戦略の拠点とされ、十四世紀半ばから十五世紀前半にかけては、新田氏が城主をつとめたと伝えられます。

秀吉が九州を平定するまでの間、多くの武将が豊前地域をめぐって戦い、馬ヶ岳城は幾度もその攻防の舞台となりました。

 

馬ヶ岳城に石垣はありませんが、山中には自然の地形をうまく利用した、土塁や畝状竪堀群と呼ばれる城を守るさまざまな工夫を見ることが出来ます。

畝状竪堀群とは、敵が山へ攻め上ってくるのを防ぐため、斜面に畑の畝のような縦向きの堀を連続させた防御線です。

馬ヶ岳城の畝状竪堀群は、およそ五十の竪堀からできています。

北側山麓から中腹にかけて築かれたおよそ五百メートルの土塁は、一部は現在の登山道になっています。

黒田二十四騎後藤又兵衛滞在の地

黒田家の家臣のなかでも、特に武功のある精鋭の二十四名を「黒田二十四騎」と呼びます。

その中に 「後藤又兵衛」という武将がいます。槍が得意で、「槍の又兵衛」と呼ばれていました。

又兵衛は、黒田長政が筑前福岡の藩主となってから、益富城の城主に任命されますが、事情があって福岡藩を出て浪人となります。

浪人となった又兵衛は小倉藩に身を寄せ、現在の行橋市の今井に一時期滞在しています。当時又兵衛が食事に使った膳が今井の西福寺に残っています。

又兵衛は小倉藩を離れる際、地元(現在の行橋市沓尾)の有力な庄屋であった守田家に自分の槍を残していきました。

この槍は現在行橋市歴史資料館で保管されています。

黒田家ゆかりの地「馬ヶ岳城」にスポットをあてたパンフレットを作成しました。

写真(パンフレット)

パンフレット(馬ヶ岳城跡)(30MB)