郡境標柱(ぐんざかい ひょうちゅう)と道路標柱

2017年4月7日

行橋市内の文化財一覧

 

標柱

市指定有形民俗文化財
指定年月日:昭和48年7月1日
 所  在  地 :行橋市大字大谷2133
                  行橋市歴史資料館
                  行橋市役所敷地内
                  行橋市 大字天生田


 行橋市には江戸時代に立てられた郡境標柱が3基残っており、それぞれが市の有形民俗文化財に指定されています。
 明治時代の初めまで、日本国内は約70の「国」に分かれていました(厳密に言えば、「国」は現在も廃止されていません)。 「国」と言っても、都道府県のような規模の行政区分です。 「国」の中は「郡」に分かれていました。 現在の福岡県東部と大分県北部は「豊前国」にあたり、「豊前国」は8郡に分かれていて、そのうち「京都(みやこ)郡」の中部と「仲津(なかつ)郡」の北部が現在の行橋市です。

 

 江戸時代に行橋の地を支配していた小倉藩は、領内の郡ごとに郡奉行を任命し、管轄させていました。 郡境標柱は郡奉行の管轄範囲を示す標識です。 また、郡境と当時の主要道が交わる地点のに立てられることが多いため、江戸時代の藩政と郡境、交通を物語る貴重な歴史資料となります。

 

(天生田・大谷の)郡境標柱

 写真左端の郡境標柱には、左側に「従是(これより)西京都郡」、右側に「従是東仲津郡」と刻まれています。 花崗岩製で高さ155cm、幅17.5cmです。
 天生田の大池の堤に立っている群境標柱です。 旧仲津郡天生田村と旧京都郡大谷村の境にあたります。 江戸時代には現在地のやや南に立っていたが、大池を築く際に現在地に移設されたと伝えられています。 当時はこの地域の東西道が山寄りを通っていました。

 

御境石図絵(小笠原文庫蔵)

(袋迫・弓ノ師の)郡境標柱

 写真左から2番目の郡境標柱には、左側に「従是西仲津郡」、右側に「従是東築城(ついき)郡」と刻まれています。 凝灰岩製で高さ186cm、幅18cmです。 旧仲津郡袋迫村と旧築城郡弓ノ師村(現築上町)の境に立っていました。
 県道の工事の際に撤去され、現在は行橋市歴史資料館内に展示しています。

 

(大橋・行事の)郡境標柱

 写真左から3番目の郡境標柱には、左側に「従是南仲津郡」、右側に「従是北京都郡」と刻まれています。 花崗岩製で、高さ214cm、幅24cmです。 「中津往来」という道の脇で、旧仲津郡大橋村と旧京都郡行事村の境を示していました。 「小笠原文庫」に絵図(右)が残っています。
 中津往来という主要幹線沿いに立っていたためか、3本の郡境標柱の中で最も大きく、太く作られています。
 現在は行橋市役所の敷地内に移設されています。

 

 


 

 道路標柱も1基、郡境標柱とともに市の文化財指定を受けました。 道路標柱は2面に郡名を刻む郡境標柱とことなり、4面に道の名前が刻まれています。 道の名前と言っても「山陽道」や「国道10号線」と異なり、他地域の人にも通じる共通の名前ではありません。 「この交差点からどこへ向かう道か」という、建てられた地から見た代表的な行き先を示しています。 

 

道路標柱

 写真右端は現在も天生田の交差点付近に立っている道路標柱です。 時計回りに「従是小倉道」「従是東椎田道」「従是南石坂越彦山道」「従是西香春道」と、4面に道の行き先が刻まれています。 標柱が立てられた時期を示す記録はありませんが、江戸時代の終わりごろにはすでに立てられていたと考えられます。 この標柱が立てられた天生田が当時四方に道が通じる交通の要所であったことがわかるだけでなく、ここに刻まれた行き先地名は江戸時代に多くの通行人が目指した場所であったことが推測できます。
 この道路標柱は、東側を流れる今川の氾濫によってたびたび設置箇所が変わったため、本来の位置は定かではありません。
 現在は天生田橋交差点に立っています。 以前は約40~50m西にあったということです。

 

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地図

各標柱現在地

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